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【院長ブログ】『令和6年1月、正月の能登半島地震と羽田日航機火災事故、そして腕のいい産婦人科医』

~【正月の能登半島地震と羽田日航機火災事故】~
令和6年1月1日(月)晴。
朝、カミさん、子供夫婦、それに孫たちと《中軽井沢くつかけステイ》のプレミアムおせち三段重をいただきました。
孫たちはもう『いくらだ、のりだ』とか言わなくなり黙々と食べていました。
南会津舘岩村の《きこりの店》から入手した榀の木の一枚板のテーブルに向きあい食事できるのは贅沢だなと感じました。
特別な話題はありません。皆、食事していました。

いつも朝食に栃木益子の店にて手に入れた黒い急須に緑茶を入れカップ3杯飲んでいます。
ここではカミさんの淹れるコーヒーを同2杯ほどです。
日本茶とコーヒーの違いによるのでしょうか。
お腹の調子がもう一つ芳しくなく、床暖房の効いた部屋の薪ストーブの前のソファに終日座っていました。
大きなガラス戸の向うはすっかり葉の落ちた見通しのいい林が見える冬景色でした。
雪はありません。

午後4時過ぎ、スマートフォンから緊急地震速報の警戒音がなり数秒して大きく揺れました。
長い時間でした。浅間山が噴火していないか心配になりました。
しばらくして能登半島の地震であることが判りました。
テレビがありません。
子供がインターネットを使った映像により確認していました。

令和6年1月2日(火)晴。
簡単な朝食を済ませました。
今日、孫たちは帰るといいます。
私も戻る予定なので、カミさんとともに駅前の《かぎもとや》に行き昼食を摂りました。
小学校低学年の孫が天ぷらざるそばをきれいに食べたのには驚きました。
私はお腹の調子が悪いのに、いつものもりそば大盛を注文していました。
狭い席に上り食べました。"うで湯"を十分いただきました。

駅からひとり、しなの鉄道に乗り軽井沢へ。
はくたか軽井沢 13:55 発、大宮着 14:46。
地震直後のことなので心配しましたが、自由席にうまく座れました。
午後4時前に帰院できました。

年賀状、2日分の新聞、それにファックスが入っていました。
ファックスは、《武藤 敏郎さんが日本経済新聞"私の履歴書"に連載が始まる》という内容でした。

正月の新聞にありました。
大蔵省と財務省の事務次官、日本銀行副総裁、さらに開成学園の理事長を務められた人物です。
中学3年3組、同じクラスでした。

それらに目を通し帰宅をして、いつも通り近くのスーパーマーケットに足を運びました。
夕食を摂り、テレビを点けると《羽田空港において日本航空機と海上保安庁機が衝突炎上》している映像が写し出されていました。
くり返しくり返し同じ像とアナウンサーの声が聞こえてきました。
気がつくとけっこう長い時間視聴していました。

翌日から午後7時のニュースを注意して見ていました。
了るとドラマなど見る気がせず、午後8時過ぎには部屋を温かくして眠りについてしまいました。
その後も同様早く眠りました。
とにかくテレビのニュースしか見る気がしませんでした。

しかし、ただ一つ見た番組がありました。
ある男子俳優らが、500円玉1つにて立ち寄り湯に入れる福島の温泉でした。

はじめに《湯野上温泉》。
泊ったことのある宿の名もありました。
春が近づいた雪のある日でした。
宿から駅まで宿の女性が車に乗せてくれ、冬期鬱の話をしてくれました。
確かに雪、寒さの中、ひとりでいると鬱になりやすいことは理解できます。

《芦ノ牧温泉》にも泊りました。
宿も湯も良し、何よりも人の心が素朴な感じがしました。
伊豆、箱根などにはない心の温かさです。

《熱塩温泉》にも60年前に泊りました。
廃線になる前の《日中線》の電車に乗りました。
確かに熱く塩っぱい湯でした。

その頃、安達良山に登り《横向温泉》に下山し、
バスに乗り《中ノ沢、沼尻温泉》を通った気がします。

沼尻には、かつて《軽便鉄道》があり、
それを題材として《作曲家 古関 裕而さんが『高原列車は行く』》を昭和29年に発表したと聞きます。
この曲にはどこが相応しいかと考えると、私は八ヶ岳だと思います。

深夜、目を覚ましたとき、テレビにこの山の麓を走行する小海線に蒸気機関車の列車の白黒像が写りました。
今ではスマートなハイブリッド車輛の電車になっています。
決っして古い感じのしない曲です。
敗戦間もない復興期の明るい楽しい気持ちが伝ってきます。

それにしても、この中ノ沢、沼尻あたりの雪の深さは大変なものです。
福島が雪国であることを改めて知りました。


【腕のいい産婦人科医】
『市報のだ』[健康ひと口メモ]表題及びイニシャルを入れ、20文字×24行、1月10日原稿提出期限という原稿依頼が来ました。
教科書のような説明文を書こうと思いました。
内容は子宮脱。

しかし原稿用紙に向かうと一つも字が埋まりません。
それなら自分の経験を書こうと思うと、10分もしないうちに仕上り、送りました。
1月下旬、校正文が届き、3ヶ所訂正し読み返しました。

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『市報のだ』掲載[健康ひと口メモ]458~医師会から~

[骨盤臓器脱手術は難しい]
 メッシュを使用した骨盤臓器脱手術が流行しました。しかしながら最近アメリカにおいて同手術が否定されました。
 私が行う膀胱底形成術、膣式子宮全摘術、骨盤底形成術を一度に行う術式が見直されています。自信を持って執刀できるようになったのは、60歳を越えてからだったと思います。婦人科手術で最も難しい手術の1つと考えます。同時にびっくりするほど脱の人が多いことを知りました。10年も前に手術をした人が今でも再診してくれますが、再発はありません。病状が軽度のうちに手術すると予後が良いという印象を私は、持っています。
 20年も前に私のホームページを見たと言い、80歳近い大きな超手拳大ほどの人が来院し手術しました。うまくいってうれしかった事を覚えていますが、その後来院していないのでどうなったか知りません。そして同じ頃、関西の人が来院しました。学会において聞いたことのある病院で執刀されていました。手術は問題ありませんが吸収性縫合糸を使っておらず絹糸が多数あり、できる限り抜糸した例がありました。(O・Y)
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読み返していると、こんなことを書く者はいないと感じました。
読者にはすぐ頭に入る内容だと思います。
次に何を感じるかと考えると、筆者の腕という点ではないかと思いました。
腕のいい医者ととらえてもらえるかも知れません。

50年前、恩師《辻 啓先生》が開業したばかりの医院に伺い、手術の指導を受けました。
先生が編み出した《膣式3回結紮子宮全摘術》です。
どうしてこの手術になったのか、私なりに考えてみました。
まず"海軍兵学校"の教育があると思います。
訓練、訓練、また訓練。
そして先生が理数に明るい頭脳の持ち主であったことです。
この手術について、はじめに発っした事柄は『この手術は立体、投影図という概念がないと判りません』でした。
それをひとりで開発したのです。

週1日、午後2時、3時、4時執刀により、膣式手術を3例了えてしまいました。
それを5年間指導を受けました。

術後、先生と食事させてもらい、手術のことはもちろん、その心得ということを丁寧に教えてもらいました。
『膣式手術が出来ることが産婦人科の名医には必要です。』と言われました。
考えてみると開業医の手術と言えば、腹式帝王切開術のみと思います。
子宮全摘術を執刀する者は少ないと思います。
もちろん腹式手術です。
膣式手術となればほとんどいないと思われます。

もう一人、開業したばかりの頃、高校野球甲子園春夏全国大会に長野代表として多く出場したという薬屋さんが来て発言してくれました。
『産婦人科の開業医には、豪華なホテルのふわふわな絨毯は要らない。質素な床でいい。腕がいいことが一番必要なのだ。』と。
考えてみればあたり前のことですが、当時の私にはとても考え及ばないことでした。
恩人と言える人ですが、その後連絡がとれません。
『名医』と『腕がいい』とは同義語なのか判りませんが、ほぼ同一と考えられます。
先ほどの市報のコラム文は【名医】あるいは【腕のいい】ことを宣伝してくれている文になっている気がしました。

この数年、受診者が減っています。
集客に役立てばありがたいことです。
それは先生の術式を頼りに38年間開業した実績の賜物です。

 

【参考サイト】

中軽井沢くつかけステイ

きこりの店

かぎもとや

武藤 敏郎さん日本経済新聞『私の履歴書』

羽田空港において日本航空機と海上保安庁機が衝突炎上

湯野上温泉

芦ノ牧温泉

熱塩温泉

日中線

横向温泉

中ノ沢、沼尻温泉

作曲家 古関 裕而さん『高原列車は行く』

恩師 辻 啓先生《膣式3回結紮子宮全摘術》

市報のだ

 

令和6年1月31日(水)記
川間太田産婦人科医院
院長 太田 八千穂

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