令和3年2月、宮藤 官九郎さんとの会話と軽井沢・八ツ岳
~宮藤 官九郎さんとの会話~
■令和3年2月2日(火)77歳、誕生日、喜寿。
午前中、散髪し《TBS赤坂スタジオ》に向かう。《宮藤 官九郎さん》との会話のためです。
午後1:20 東京メトロ千代田線赤坂駅に担当の若い男性と会う約束。
やや早く到着しエスカレーターに乗り1階上がり、5-6軒の店を見ながら一番奥に書店を見つけ寄りました。
テレビ、ラジオの関係者が立ち寄るのでしょう。
一まわりして元の場所に戻りました。彼がいました。
その上司の若い女性をしばらく待ち、そしてTBSの建物の中へ。
入口に新型コロナウィルス感染のため検温計が設置されていて、通るとブザーが鳴り、もう一度通ると鳴りません。
5階ほど上の階へエレベーターに乗り控室に着きました。
局側の担当者から予め提出した書類から《エビデンス》《手術は戦争だ》《旅行》がとり上げられていて少し説明し、スタジオに移りました。
感染予防の透明な板の向こうに官九郎さんはいました。
===
「日本の経済を動かす経営者や団体の代表の方に、哲学や考えを聞きながら、知られざる実情に迫っていく《Innovative Lounge》。お迎えしたのは、川間太田産婦人科医院 太田 八千穂さんです。」と始まりました。
千葉県野田市に開院し37年目に入る。
開業の理由。父が戦中、足立区五反野駅において開業、東京大学医学部卒の兄がいて、東大の方の道がなくなり戻ってきた。
東武野田線川間にて新規開業した。自然があっていい所。
どんな診療をしているのかと問われ、産婦人科一般、出産、分娩、初期及び中期人工妊娠中絶術と《膣式子宮全摘術》。
兄の関係により膣式手術の第一人者《辻 啓先生》に弟子入りした。
《辻式3回結紮子宮摘出術》の猛訓練を受けた。
この手術には昭和1桁生れの人たちの気持ちがこもっている気がする。
『【手術は戦争だった】とありますがどういう事ですか。』と聞かれました。
3年くらい前から膣式手術がなくなり、『あれは何だったのか』と考えてみるとそういう答えが出ました。
ウォルフガング・ペーターゼンの《U・ボート》を5、6回観ましたが、膣式手術の術者の心得ということを示していると思います。
宮藤さんに言ってもしょうがないんですけど、最近《エビデンス》という抽象的な話をする人が多くいるんですけど。
《エビデンス》という話になりました。
医師の学会に出席すると、この2、3年やたらに同語が出てきます。40-50年前には聞かない言葉です。
《エビデンス》という言葉で一生懸命統一するような気さえします。
『そういう概念で君たち全部まとめなさいよ』っていうような指令があるような気さえします。
ここで時間になりました。
旅行について話せませんでした。
===
《戊辰戦争》において《鳥羽伏見の戦》と《上野黒門戦争》に破れ、幕軍は会津若松に逃れました。
会津西街道、即ち東武野岩会津鉄道をたどったのですが、将兵たちはどんな気持ちだったのでしょうか。
開業の重圧もあり強く感じました。
会津高原高杖原へ行くようになりました。
そしてこの数年、軽井沢へも行くようになりました。
川間は会津高原高杖原にも軽井沢にも行きやすい場所なのです。
収録を了え外に出ました。
近くの喫茶店へ。居なくなっていた女性を待ち出ました。
赤坂は私には知らない街。タクシーに乗り神保町へ。
車の中において女性が『軽井沢の別荘の動画を撮ろう。有名なTV製作者がいる。先生だから200万円』といきなり言われました。どこかテンションの高い声でした。
タンゴ喫茶《ミロンガ》に着くと、用紙を出し署名しろという。
そんなもの作ったって受診者の集客に役に立たないし、妬まれるのが落ちだと判断して書きませんでした。
そして、中国料理《揚子江菜館》へ。
誕生日だからと親しい仲間がかけつけてくれ、断ってもらいました。
若い男性に連絡をとると、おぼろげながら背景が判りました。
日が経つにつれ、ひどく馬鹿にされた気になり腹立たしくなりました。
彼女からはそれっきり説明もなし。
『地道にやるしかない』というあたりまえな結論に達しました。
■令和3年2月12日(金)
午後 5:12 担当の男性から『本日TBSラジオ夜9:00~9:30の宮藤 官九郎との対話、午後9:25ごろ1分間放送します』との電話がありました。
聞きました。《エビデンス》の話でした。
聞き終えた感想は、ある住宅会社のよく判らないテレビによる広告の『これだけ』あるいは『たったこれだけ』という明瞭な文句がありますが、まさにその通りです。
~軽井沢・八ツ岳~
■令和3年2月10日(水)
午前診療を了え午後休診として軽井沢に向かいました。
レントゲン技師が車を出してくれました。私とほぼ同じ年齢のいつもの退職者も一緒でした。
軽井沢新聞を毎月手に入れているのですが、その中に《八風温泉》の割引券が同封されていて、先に入浴してから宿に行くことにしました。
午後1:00前、医院を出て高速道を使い午後3:00には温泉に着きました。
軽井沢駅にある緑の多い写真の通りでした。
宿泊施設《ル・グラン》は営業していない。湯だけやっていました。
2人くらいの客がいましたが、ほとんど貸切状態でした。
内湯に浸かりよく温まり野天風呂に入りました。
スーパーマーケット《ツルヤ》をのぞくと相変わらず大きな店、人もほどほどいました。
魚売り場に生鰊が50尾あるいはそれ以上置いてありました。
医院の近くの店ではせいぜい10尾くらいです。
鰊を見るといつも『春が来た』と感じます。
別荘の人がこの冬の平日に多くいるとは思えません。
両親が長野出身であり小さい頃から《身欠き鰊》を食べていた記憶があります。
従って軽井沢の地元の人も鰊は身近かな食材ではないかと考えました。
中軽井沢の《ベルキャビン カフェ&ゲストハウス》に到着。
手続きし、駅前の《モン・ルー》まで歩きました。
すっかり暗くなっていました。午後5:00を少しまわっていました。
女性ひとりの店であり、どんな料理が出てくるのか楽しみにしていました。
生ビールを2杯ずつ注文、1人はさらに2杯追加。
私は南アフリカ産赤ワイン2杯いただきました。
料理は単品、値頃な料金でした。
鰊の酢漬け。
東京銀座にあったドイツ料理《ケテル》のものを考えていました。
鰊と言えばバルト海を想像します。けっこうきつい味がしましたがおいしいというか独特の味、行くたびに注文しました。
それに比べこの店のものは極めてわずかな酢の味がしました。
柿の白和え、ザーサイ豆腐もいい味がしました。
午後8:30過ぎタクシーに乗り宿に戻りました。
アラジンストーブのある部屋を自由に使わせてくれ、ソファーに座り午後11:00近くまで話しました。
いい時間でした。
■令和3年2月11日(木・祝)
朝、眼をさますと雪。
自家製のベーコン付きトーストによる朝食。
午前8:30 宿を出ました。
雪はそれほどの降りではありません。
草津方面は雪が心配、八ツ岳方面に決めました。
高速仕立ての道がしばらく続き、一般道になりました。
佐久平というだけあって平坦な道路です。
千曲川の水害があったのでしょうけれども目立ちません。
そして陽がさしてきました。
佐久海の口に出ました。
昭和60年8月、《日航ジャンボ機墜落事故》が起こりました。
開院したての夏の夕方。
診察を了え病院食を摂ろうとビールを飲みはじめる前にテレビをつけるとその事故を伝えていました。
『これからどうなるのだろう』という自分の心配と重なりました。
最初に現場が《御座山》と聞きました。
高校生のときこの山に登っていたので、すぐ了解できました。
しばらくして《御巣鷹の尾根》変更になりました。
がんにより亡くなった《逸見 政孝アナウンサー》ときれいな《幸田 シャーミンさん》が連日報道していたことを想い出します。
《麦草林道》というプレートが見えました。
中学3年 夏、《麦草峠》にて合宿しました。平らな草地でした。
林道が通るのではないかと想像していました。
信濃川上を通りました。
今ではレタスの産地として有名になりましたが、高校2年の秋《信州峠》へ向かいました。
晴れた日、牧歌的と表現できそうな道でした。
男山、女山という名の山がありました。
峠を越え甲州側に入り《瑞牆山(みずがきやま)》の道のあたりに上智大学と名の入った天幕があり、中から『《ソフィアローレン》とは関係ありません』という声が聞こえました。
少し下ると《増冨ラジウム温泉》につきます。
この発言はイタリア映画監督《フェデリコ・フェリーニ「道」》につながります。
カソリックという宗教と巨乳に代表される母性が、彼の主題の1つであるということを聞いたことがあります。
小学校高学年のとき初めて日比谷の映画館にて観ました。
2回目は医学解剖実習の時間からぬけだし高田馬場の映画館でした。
本邦最終上映とありました。疲れきっていてほとんど眠っていました。
3回目は家族とともに市民会館における自主上映でした。
40歳を過ぎ観ると《石油会社カルテックス》の給油所に気付きました。
そしてイタリアも日本と同じ敗戦国であることが判りました。
知的障害の若い女性の死を知った粗野な中年の男が、夜の暗い波打ち際において号泣するラストシーン、そしてトランペットの響き。
もう心が一杯になりました。
そして、どうしてこんなに東洋的あるいは日本的な内容になるのか理解できた気がしました。
中央道、圏央道を通り、午後2:00には帰れました。
明るい晴れた日でしたが、強い風が吹いていました。
【参考サイト】
■TBS赤坂スタジオ
■宮藤官九郎さん
■エビデンス
■Innovative Lounge(TBSラジオ)
■膣式子宮全摘術《辻 啓先生》
■ウォルフガング・ペーターゼンの《U・ボート》
■戊辰戦争・鳥羽伏見の戦
■上野黒門戦争
■ミロンガ
■揚子江菜館
■八風温泉
■スーパーマーケット《ツルヤ》
■身欠き鰊
■ベルキャビン カフェ&ゲストハウス
■モン・ルー
■日航ジャンボ機墜落事故
■御座山
■御巣鷹の屋根
■麦草林道・麦草峠
■信州峠
■瑞牆山(みずがきやま)
■逸見 政孝アナウンサー
■幸田 シャーミンさん
■ソフィアローレン
■増冨ラジウム温泉狭
■フェデリコ・フェリーニ「道」
■石油会社カルテックス
令和3年2月28日(日)記
川間太田産婦人科医院
院長 太田 八千穂

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